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プリンストン(USS Princeton, CV/CVA/CVS-37, LPH-5)は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦。艦名はニュージャージー州プリンストンに因む。その名を持つ艦としては5隻目。 == 艦歴 == プリンストンは1943年9月14日、ペンシルベニア州フィラデルフィアのフィラデルフィア海軍造船所で「ヴァリー・フォージ」の艦名で起工した。1944年11月21日に「プリンストン」と改名され、1945年7月8日にマーガレット・ドッド(ハロルド・ドッドプリンストン大学学長夫人)によって命名、進水し、1945年11月18日、ジョン・M・ホスキンス艦長(プリンストン (CVL-23)艦長)の指揮下就役する。 キューバ沖での整調航海後、プリンストンは第81航空団を乗艦させると大西洋に残り、1946年6月まで第8艦隊と共に作戦行動を行う。その後太平洋艦隊に移動し、6月30日にサンディエゴに到着、7月3日に出港すると1944年8月1日に死去しアーリントン国立墓地に埋葬されていたフィリピン大統領マヌエル・ケソンの再埋葬のためマニラへ運搬する。マニラからプリンストンはマリアナ諸島の第七艦隊に合流し第77機動部隊の旗艦となる。9月から10月にかけてプリンストンは日本から中国にかけての水域で作戦活動を行い、その後マリアナ諸島に帰還し1947年2月まで留まる。ハワイ水域で演習を行った後、3月15日にサンディエゴに向けて出航する。プリンストンは西海岸、ハワイ水域および西太平洋で1947年10月1日から12月23日まで作戦活動を行う。その後1948年6月20日に退役、太平洋予備役艦隊に加わる。 15ヶ月後に朝鮮戦争が勃発し、プリンストンは1950年8月28日に再就役する。集中的な再訓練の後12月5日に第77機動部隊に加わり、韓国水域で搭載部隊の第19航空団による戦闘偵察を行う。その後ハガル里地区に対して248回に及ぶ攻撃を行い、続く六日間にわたって長津湖から興南へ退却する海兵隊に対して地上支援攻撃を行った。12月11日に全ての部隊が海岸の集結地点に到着する。プリンストンの艦載機は他の海軍、空軍、海兵隊機と共同して興南からの撤退が完了する12月24日まで支援攻撃を行っている。 北朝鮮に対する攻撃は続けられ、4月4日までにプリンストンの艦載機は54の鉄道路線、37の橋を修復不可能としさらに44を破壊した。5月に同部隊は平壌と順川、新安州を結ぶ鉄道橋を攻撃し、翌日には華川貯水池に対する攻撃を行い、A-1スカイレイダー艦上攻撃機による攻撃隊が航空魚雷でダムを破壊するという戦果を挙げている。同年の夏は発電所や輸送路に対する攻撃を集中的に行い、8月に入るとプリンストンは帰国の途につく。8月21日にサンディエゴに到着している。 8か月後の1952年4月30日にプリンストンは第77機動部隊に再合流した。138日間に渡って艦載機による攻撃が行われ、沖合で小型艇を多数撃沈した。また敵後方の補給施設や、海岸に面した都市への攻撃に参加し、鴨緑江で水力発電所への攻撃を行っている。 プリンストンは1952年10月1日に艦種変更され、分類番号は CVA-37 となった。11月3日にカリフォルニアに帰還し、二ヶ月間の休養の後再び太平洋西部に向かう。1953年2月に韓国水域から離れ、停戦まで艦載機による味方への上空援護を行った。プリンストンは7月27日の停戦合意後も極東に留まり、9月7日にサンディエゴへと向かう。 1954年1月にプリンストンは再び艦種変更され、分類番号は CVS-37 となる。 プリンストンは西海岸に帰還するとオーバーホールが行われた。その後1968年5月に再びベトナムへ向かう。ベトナムでは強襲揚陸グループアルファの旗艦として「フォートレス・アタック」IIIおよびIV、「プラウド・ハンター」「スウィート・パーシット」「イーガー・ハンター」の各作戦に参加した。12月には本国へ帰還し、翌1969年4月にアポロ10号の回収船に指定される。その後1970年1月30日にプリンストンは退役し除籍された。1971年5月にはスクラップとして売却された。 プリンストンは朝鮮戦争の戦功で8つの従軍星章を受章した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「プリンストン (CV-37)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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